著者は政治学の研究者だが、アメリカの屠殺場(家畜を殺して食肉に加工する施設。この本では、事実をはっきり書く方針から「屠殺場」と明記している)で著者が実際に働いて観察した実態を詳しく書いている。この本の性質上、残酷な描写が多数出てくるので、そういうのが苦手な人は読んではいけないが、残酷な描写に耐えられる人はぜひ読んでみるとよい。
屠殺場で働いているのは有色人種や非正規移民が多い(著者も白人とタイ人を両親に持つので、外見上は有色人種)。作業のスピードが速く危険が多い。著者が働いていた屠殺場では1日に2200頭から2500頭の牛が殺され、食肉に加工されている。賃金はアメリカの職場としては非常に安く、アメリカの最低賃金と大して変わらない。
全体の作業は恐ろしく細かく分けられている上に、工場の全体が見渡せないように工場内部が意図的に曲がり角が多く設計されており、ほとんどの労働者は「まだ生きている牛」か、「すでに食肉に近い状態」のいずれかしか見ることはない。「ノッカー」と呼ばれる「生きている牛」を殺す役目の労働者は、屠殺場の中でも他の労働者から差別的にみられている(「ノッカーになったら、本当に心が壊れるぞ」)。
工場の中では衛生基準の違反が多発しており、製品である食肉に牛の糞がついていることさえあるが、そのような違反はほとんど見過ごされている。衛生基準を守っていると、とても計画されたとおりに作業ができず、1日に2200~2500頭もの牛を殺すことができないためだ。工場にはアメリカ農務省(USDA)の検査官が常駐して違反を監視しているが、彼らもすべての違反を摘発していたらきりがないのでほとんどの違反はわざと見過ごしている。ただし、衛生基準の違反が多発している状況であるにもかかわらず、食品安全上の大事故は生じていないようである。
著者は、「屠殺場が社会から(物理的・精神的に)見えないようにされていること」および「屠殺場の中でも、牛を殺す作業が(物理的・精神的に)見えないようにされていること」に注目する。現代の社会が暴力を必然としているにもかかわらず、暴力が見えなくなっていることを強調する。このことをミシェル・フーコー風に「視界の政治」と呼んでいる。
上で述べたように、本書は理論(思想)的にはフーコーをはじめとする現代思想に立脚している(本文中には明記されていないが、著者はタイにルーツを持つ人物なので、もしかしたら仏教的な肉食に反対する思想も影響しているかもしれない)。その一方で、マルクス的な考察は全くされていない。マルクス的にいえば、なぜ屠殺場で非正規移民が雇われるのか。その方が低賃金で雇うことができ、労働組合を結成して権利を主張することが困難だからである。なぜこれほど作業のスピードが速く、労働者が危険にさらされ、衛生基準が無視されるのか。それは大量の牛を殺して食肉に加工するためには、作業のスピードを極限まで早める必要があるからである。いずれも最大限の利潤を上げるために行われていることであって、消費者が求めていることではない。仮にもっと作業のスピードが遅くなって、殺される牛の数が減り、牛肉の値段が高くなっても消費者は特に不満もなくそれを受け入れるだろう。
出版社ページより紹介を引用
1日に2500頭の牛が食肉処理される産業屠殺場
――その現場に政治学者が覆面労働者として潜入し、不可視化された暴力の実態を明らかにする。さらに屠殺の観察を通して、現代社会における監視と権力、暴力の恩恵を受ける多数者の矛盾と欺瞞、そして〈視界の政治〉の輪郭を浮かび上がらせる。
現代の屠殺場の壁の向こう側で何が起こっているのか、読者は知りたくないかもしれない。しかし、パチラットの驚くべき語りは、虐待された動物や貶められた労働者以上のものを教えてくれる。われわれが生きている社会がどのようなものであるか、目を開かせてくれるのである。―― ピーター・シンガー(『動物の解放』著者)
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