明治時代からの新聞上の論説を主な分析材料にして、「日本人は無宗教」という言説を検討している。「日本人は無宗教」言説を①「日本人は無宗教なので、日本人の精神には重要な要素が欠けている」という「欠落説」、②「日本人は無宗教だが、それで特に問題はない」という「充足説」、③「日本人は実は無宗教ではなく、独自の宗教を持っている」という独自宗教説の3つに分類して考察している。
この本の限界として、考察の対象が宗教そのものではなく新聞の論説であるため、宗教に関して本格的に深遠な議論が展開されているわけではない。また、宗教は人の人生のさまざまな側面を取り上げあるが、この本では論じられていることが頻繁に変わってしまっている(これも考察対象が一般には短文である新聞の論説であるため)。
キリスト教において、最後の晩餐(ユダによる裏切りとイエス自身の死の予告)・ペトロによるイエスの否認(使徒集団の崩壊)・イエスの「復活」による使徒集団の再建・使徒による宣教と殉教という一連の福音書の物語の中に、「正しい人間の生き方とはどういうものか」という一般的な倫理的基準に加えて、「自分の死に直面した人間はどう生きるべきか」「身近な人間(イエス)の死を経験したときにどうするべきか」という、人間の人生における危機的局面における「救い」が示されている。仏教をはじめとする他の宗教でも、一般的な倫理的基準と、人生の危機的局面(自分の死や身近な人の死など)における救いなどさまざまな要素を持っているが、この本では宗教のどの面について議論しているのかには注意が払われていないので散漫に感じる。この本の著者は若い研究者たちなので、おそらく「自分の死」や「身近な人の死」などの宗教が切実に求められる危機的経験をしたことがないのではないか。(念のため、私はキリスト教徒ではない)
出版社ウェブサイトから紹介を引用
「日本人は無宗教だ」とする言説の明治以来の系譜をたどり、各時代の日本人のアイデンティティ意識の変遷を解明する。宗教意識を裏側から見る日本近現代宗教史。
「日本人は無宗教だ」とする言説は明治初期から、しかもreligionの訳語としての「宗教」という言葉が定着する前から存在していた。「日本人は無宗教だから、大切な○○が欠けている」という“欠落説”が主だったのが、一九六〇年代になると「日本人は実は無宗教ではない」「無宗教だと思っていたものは“日本教”のことだった」「自然と共生する独自の宗教伝統があるのだ」との説が拡大。言説分析の手法により、宗教をめぐる日本人のアイデンティティ意識の変遷を解明する、裏側から見た近現代宗教史。
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